北千住について

富嶽三十六景「従千住花街眺望之不二」


単刀直入に書きます。


「北千住は江戸ではありません」


。・゚・(ノД`)・゚・。 という人も、

ヽ(`Д´#)ノ という人も、

m9(^Д^) という人もいるでしょう…。


自分は、千住宿のうち、とくに足立市場前交差点からローソン+スリーエフまでの千住河原町付近がお気に入りです。


まず入口の足立市場前の千住宿奥の細道プチテラスには「千住宿 奥の細道」という看板がどーんと構え、「千住は矢立の地」と松尾芭蕉の石像が迎えてくれます。まずこれが暇を持て余してチャリンコを転がしてきている自分のテンションを上げてくれるのです。


京成本線の高架を潜る前には「やっちゃ場南詰」の木札、そして歩を北に進めれば、各戸に宿場町時代の屋号を記した木札が設置されているのです! これは現住民たちの協力あってこその実現なので大変胸が熱くなります。行ったことないという方には「是非おススメ」です。








残念なことに戸外に木札を設置する企画は千住仲町交差点までですが、そこから北の千住仲町町域はかもん宿商店街、さらに千住一~四丁目町域からは千住ほんちょう商店街、そして宿場町通り商店街=北千住サンロード商店街という大変賑やかな商店街が続きます。「シャッター通りと揶揄される、昨今の商店街事情は現実のことなのだろうか」と思わず目を擦ってしまうぐらい活気のある街並みがずっと続きます。

宿場町としての機能は当然既に終えており、現在は大商店街としての使命を全うしている千住の街、殆ど全てのお店が営業しており、そこを老若男女が楽しそうに買い物しています。そんな姿だけ見ていると、他の有名な商店街とあまり変わらないような印象を受けますが、ところがどっこい、問屋場・貫目改所跡の案内板、千住宿市郎兵衛本陣跡の石標、千住ほんちょう公園、それに横山家住宅、千住絵馬屋・吉田家が残されており、「ここは江戸四宿で最大の宿場町 千住宿だ!」と主張してくるのです。元宿場町のポテンシャルを存分に活かし、町を活性し続ける弛まぬ努力がビンビン伝わってくるのです。素晴らしい、北千住、足立区。


本当に好きなんですよ、北千住。


ただ、歴史は曲げられないので…。








では、江戸四宿、大木戸についても絡めて考えてみましょう。


まず、「江戸四宿」とは、五街道の起点・日本橋から2里(約8 km)以内のところにあった宿場町のことです。東海道の品川宿(北品川宿南品川宿。その後、品川歩行新宿も加わる)、甲州街道の内藤新宿(内藤新宿下町内藤新宿仲町内藤新宿上町等)、中山道の板橋宿(下板橋宿(平尾宿仲宿上宿))、そして奥州道中・日光道中の千住宿の総称です。

※高井戸宿という宿場町もありましたが、通行大名が少ないこと、江戸から余りにも遠いということで、内藤新宿が新設されてからは甲州街道で2番目の宿場町となり、江戸四宿には数えられていません。また、板橋宿には有名な下板橋宿以外に上板橋宿(下宿中宿上宿)という宿場町がありましたが、通行する大名が川越藩主だけであり、規模が小さかったことで問屋場や本陣が設置されず、いまいちマイナーな存在なため、ふだんはあまり語られることがありません。


まず、この「江戸四宿」という呼び方が紛らわしい…。


次に大木戸ですが、「大木戸」とは、江戸内外の境界に設置された、人や物品の出入りを管理していた関所のことをいいました。なので大木戸は「ここから江戸です」、「ここまで江戸です」というのを示すランドマークでもあったわけですね。


ですからそもそも宿場町というものは、大木戸の外に設置されていたのです。


・品川宿~高輪大木戸よりだいぶ南

・内藤新宿~四谷大木戸から西(すぐ西)


であることから、この2つの宿場町は当初は江戸外にあったのです。


次に下板橋宿の大木戸はというと、①石神井川を板橋で北に渡ったすぐ(板橋区本町27番)の上宿入口にあった、もしくは②なかった、と2説あるとのことです。

①の説を採れば、下板橋宿のうち上宿だけは江戸外ということになります。ただ、大木戸の撤廃時期が分かりません。高輪や内藤新宿のように大木戸撤廃でその後に江戸内が拡がった可能性があります。『大江戸今昔めぐり』では上宿の最北端に朱引が引かれており(前野村に抜ける旧中山道の東側の最北端は朱引から飛び出している)、それだけ見れば上宿も江戸内ということになりますが、『大江戸今昔めぐり』の内容現在は江戸末期なので、それだけ見て「下板橋宿には開宿以来大木戸はなかった」とは断言できません。また、別仮説として、もしかすると大木戸は前野村との境にあった可能性もあるのではないかと考えることもできます。何故なら、「上宿の入口」とは板橋北詰ではなく、前野村との境の方と捉えてもおかしくはないからです。なお、『染井王子巣鴨邊繪圖』でも上宿は町屋を表す灰色で塗られています。

ただ、『江戸朱引図』を見ると、どうしても石神井川が江戸境になっているように見えるので、そのとおりに見れば、①の説「下板橋宿の大木戸は石神井川を板橋で北に渡ったすぐ上宿の入口にあった=下板橋宿は上宿のみ江戸の外」と見ても不思議ではありません。

※このサイトは、『御府内外境筋之儀』に対し、幕府が江戸の範囲を正式に示した回答にしたがっているので、極北東端を除く下板橋宿全域を朱引内としています。


その後、四谷大木戸については1792(嘉永4)年に、高輪大木戸についても江戸期のうちに廃止されたようで、その外側はどんどんと膨張する江戸に組み込まれていき、品川宿も内藤新宿も1818(文政元)年12月に阿部正精が引いた朱引・墨引の内にしっかり組み込まれています(品川宿は墨引外だが朱引内、内藤新宿はどちらにも属する)。下板橋宿についてはその設置位置によりますが、もし大木戸が「嘗てはあったがその後撤廃された」ということが真実であったとしても、宿の先は前野村であり、下板橋宿の繁華っぷりがそこまで及ぶことはなかったと考えられ、大木戸撤廃=江戸の範囲拡張とはならなかったかもしれません(上宿が江戸内に入ったということはあり得る)。

※なお、下板橋宿の大木戸があったとされる位置は、現・板橋区板橋本町25番7号とも、ざっくりと「岩の坂上」とも言われています。

※高輪の西側の石垣は道路拡張のために明治維新後すぐに、四谷の石垣等も交通障害という理由のために1876(明治9)年に撤去されました。


で、気になる本稿の主役、千住宿です。


千住には大木戸はなかった模様です。ここについては荒川(現・隅田川)が大木戸の役目を果たしていたのでしょう。


つまり、千住宿のうち、千住大橋の南側の下宿又は南宿(現・荒川区南千住)だけが江戸内であり、北側の本宿・新宿は江戸外だったというわけです。


大木戸が廃止になったことで、四谷大木戸より西や高輪大木戸より南は、旧市域との往来が楽になった。そうなれば次第に「大木戸跡は境界線」という人々の意識は薄らいでいき、それが自然のなりゆきで江戸の拡大に繋がったと容易に推測されます。


しかし千住宿の場合は、大木戸の代わりが千住大橋だったので撤去されることもなく、逆に南側の、郡違いであった千住小塚原町千住中村町を吸収する形で独自に発展を続けていったのです。


つまりそれほど千住宿には力があったのです。当時の千住は、江戸内であろうがなかろうがそんなことはどうでもよく、独自にどんどんと発展を続けていった巨大な独立体であったといっても過言ではないのです。




さて繰り返しますが、このサイトは基本的に、阿部正精が引いた朱引・墨引の内側のみを江戸内として、その中にあった町々を紹介するものです。したがって、北千住は掲載していません。しかし、北千住の街並が大好きなので、どうしても載せたいと考えた時期もありました。


そこで見付けたのが『足立史談』(第592号)。これは凄い。


それによると、掃部宿源長寺門前は1745(延享2)年に町奉行支配地になったのだそうです。それ以前は寺社奉行支配地でした。しかし、町奉行支配地となった翌1746(延享3)年には早々に代官支配地に所管替えとなっており、すぐに町奉行支配から抜け出しています。


その理由は、困った源長寺が小塚原にある円蔵院や神護寺(現・素盞雄神社)に相談し、「寺社奉行支配に戻してほしい」と大岡忠相に願い出たのだそうです。しかし忠相は「出入」という訴訟等の事務を除き、掃部宿源長寺門前を寺社支配地ではなく代官支配地として、代官・柴村盛喬に担当させることに決めたんだそうです。つまり掃部宿源長寺門前は自分から出ちゃったということなんですね。


『足立史談』(第592号)を読んで感じること。それは北千住に対する愛情、そして江戸に対する憧憬です。さらにどうにか北千住が江戸内にならないかという執念と、動かしようのない史実を前にしての諦念と、そしてついに「府外だけど江戸の一部である」という、府内の人には考えつかないだろう全く新しい落としどころを見付けたというところです。ひとしきり感心して読ませていただきました。


実は知り合いに北千住に住む人がいるのですが、その人の地元に対する愛着は想像を絶するほどのものです。なるほど北千住の素晴らしさは自分のような「他所者の北千住好き」にもよく理解できます。それぐらい素敵な街並みなのです。


しかし、その人は北千住が江戸ではないことに触れようものなら烈火の如く怒り出すのです。また、火に油を注ぐには「南千住は江戸だけどね」と付け加えることです。それを言うと泡を吹いて倒れるのではないかというほど常軌を逸したように怒りのボルテージが上がるのです。


そうすると「北千住が歴史的に果たした役割を知らないのか」、「南千住は北千住のおこぼれで栄えたんじゃないか。現代でもそうでしょ」、「南千住ってさ、昔は刑場があったり、焼き場があったりして、雰囲気よくない」と言い返してくる始末。しかし困ったことにそれは全て間違ってはいないのです。


ただ、それとこれとは話が別です。


なので本当のところは分かりませんが、『足立史談』(第592号)は「北千住も江戸って言ったっていいじゃないかよ!」と思っている人たちの溜飲を下げさせるために、筆者が必死になって書いたんだろうなぁと思いました。


たしかに1746(延享3)年、中目黒町下目黒町は町奉行支配地となり、江戸内となったにも関わらず、阿部正精によって朱引から外されています。しかし、墨引には入れられるという不思議な決定がなされました。これについては「目黒2町について」に書いたとおりです。


『足立史談』(第592号)にも北千住に対してそのような記述がありました。江戸では1713(正徳3)~1732(享保17)年にかけて、それまでの代官支配地を町奉行支配地に組み込む所管替えが行われ、続いて延享年間(1744~1748年)には寺社門前町の町奉行支配への所管替えが行われました。その史実に基づき、「1745(延享2)年に行われた千住掃部宿源長寺門前の町奉行支配への所管替えもその一環だろうから、北千住も江戸と言ってもいいのではないか」と言っているように読める部分があるのです。その他にも「だから北千住も江戸と言っていいでしょう?」という証拠のような事柄が書かれているのです。


たしかに千住掃部宿源長寺門前は1745(延享2)年から1746(延享3)年の間、町奉行支配地だったかもしれません。だからその門前については「その期間、江戸だった」といっても差し支えないかもしれません。しかし今でいう所謂「北千住全域」が江戸だったわけではありません。


東京都公文書館のサイトに「江戸の範囲~天下の大江戸、八百八町というけれど」というページがあり、そこに「江戸の範囲」がまだ定められていなかった頃、人々が「ここまでが江戸」と考えていた複数の解釈が載っています。たしかにあれだけパターンが複数あれば、江戸の範囲がどこまでなのかさっぱり判断出来ません。


ただ、証拠となり得る文献を探し出してきて、「ほら、我が町も江戸内と言ってもいいよね」となんて言い出すと、『江戸名所図会』のように埼玉県さいたま市の大宮や浦和が描かれているものもあるので、「そんなこと言うんなら、さいたまも江戸なのかよ」ってことになってしまいます。そうなると「さすがにさいたまはちょっと…」とか、逆に「さいたまも入れちまおう」なんて、かなり乱暴な話になっていきます。


好き嫌いで言うなら自分は、北千住だけではなく、鮫洲や大森、蒲田、羽田も大好きなので江戸に入れ込みたいと考えます。でも江戸の範囲を後世、勝手にいじっていいわけがありません。



・掃部宿源長寺門前

撮影地:足立区千住仲町4番地1号(源長寺)



なので、『足立史談』(第592号)の読後感想って、


。・゚・(ノД`)・゚・。 という人も、

ヽ(`Д´#)ノ という人も、

m9(^Д^) という人もいるのでしょう…。


『足立史談』(第592号)の一番凄いのは、「朱引外の千住は府外と考えられているが、文化面や社会的役割においては江戸の一部であって府外であると捉えるべきである」と締めているところです。的確な例えが見付かりませんが、強く思い出したのは友人の「ザ・ドリフターズの付き人だったすわ親治は正式なメンバーではなかったけど、あれだけ長いこといて、そしてあれだけ大きな功績を残したんだから“彼もドリフといってもいい”よな。長さんも生前そう言ってた。著書にもそう書いてあるし」という言葉です。よく言う「*人目の****」です。「すわは6人目のザ・ドリフターズ」、「ジョージ・マーティンは5人目のザ・ビートルズ」、「アンドリュー・オールダムは6人目のザ・ローリング・ストーンズ」とかっていうあれです。


とくに「北千住は南千住より栄えてるだろ?!」と言われると、「たけし軍団はロッテオリオンズや阪神タイガースの2軍に勝ったんだからプロ野球チームと言ってもいいだろ」というぐらいの戯言に聞こえます。オリオンズやタイガースの2軍がどのぐらい本気を出したのかは知りません。ただ、たけし軍団が試合に勝ったのは事実です。しかし、それとこれと関係ありますか、と。


気持ちはよーく解ります。ただそれは感情的な部分であり、「そう言ってやりたいよなぁ」という話です。


正メンバーのみをザ・ドリフターズ、ザ・ビートルズ、ザ・ローリング・ストーンズと言います。同じように、このサイトは江戸町のみを採用して掲載するサイトです。本体に対して、どのぐらい親密であったか、功績が大きかったか等は関係ありません。


自分も思います。御府内外境筋之儀の際、「阿部正精に対して意見する者はいなかったのか」、「千住も目黒のようにせめて墨引内に入れ込むわけにはいかなかったのか」と。何故、品川、内藤新宿、下板橋という他の3宿を丸々江戸内として(下板橋宿の上宿の北東突端の一部を除く)、千住だけは下宿又は南宿(今の南千住)のみを江戸として、本宿・新宿(今の北千住から千住大橋)を江戸に組み込まなかったのか…。


しかし、1689(元禄2)年3月27日(新暦では5月16日)、松尾芭蕉が千住大橋付近から奥の細道に旅立つときに「千じゅと云う所にて船をあがれば」と日記に書き、そこで江戸に別れを告げたというのだから、やはり北千住は江戸ではないのです…。


もう既に存在しない江戸という都市の範囲は、当然後世では変えられないのです…。


でも、冷静に考えてみましょう。「江戸じゃなくちゃ駄目」な理由って何なのでしょう?


北千住が江戸でなかったとしても、実生活において何らかの障害が出るわけではありません。ただ、このサイトに載る・載らないだけかと思います。


「上板橋宿だとか、他にもよく分かんねえ外れの方の百姓町屋だとか、小名・小字とか載っけるんなら、北千住載せてくれたっていいじゃねえか」とかそういう気持ち、解ります。ただこれは栄えている/栄えていないは関係ないのです。江戸なのかそうじゃないのかが掲載基準です。


江戸は江戸、北千住は北千住。そう、北千住が江戸じゃなくたっていいじゃないですか!


明日も北千住に呑みに行きます。大好き、北千住。


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。