【芝①075】下高輪町
町番号:芝①075
町名:下高輪町
読み方:しもたかなわまち Shimo-Takanawamachi
区分:町丁
起立:江戸期
廃止:1967(昭和42)年6月30日
冠称:1947(昭和22)年3月15日から「芝」
現町名:港区高輪三丁目14~23番の一部
概要:江戸期は荏原郡麻布領のうちで幕府領。南は北品川宿、北は上高輪町、芝伊皿子町に接す(新編武蔵)。『田園簿』の石高は190石余、うち畑地157石余。『元禄郷帳』では201石余、『天保郷帳』では173石余。『新編武蔵』では下高輪村とある。寛文年間(1661~1672年)までに8万239坪の地が日蓮宗長祐山承教寺、浄土真宗護念山証誠寺、海徳寺等と奥平氏、浅野氏、松平氏等諸大名の御用地となる(新編武蔵)。
領域内を東海道が通り、1713(正徳3)年、街道沿いの43石余の地が町奉行支配に属し、高輪北町、高輪中町、高輪南町、高輪北横町、高輪台町、高輪小台町と常光寺、国昌寺、証誠寺、保安寺、知将院の5門前町となる(新編武蔵)。年寄与蔵の先祖田中但馬安泰は新田家支流と伝え、この地を開墾し、屋号を「高輪屋」と称したという。また町内には松平采女正、有頭玄蕃頭、松平豊後守等の抱屋敷があった他、小名洞の地に3体の石像からなる庚申塚があった。化政期(1804~1830年)の家数122軒(新編武蔵)。東禅寺と安泰寺の間の坂下の窪地を「ぼら」と俗称(洞横町(鯔横町)を参照のこと)。東禅寺は幕末の安政(1854~1860年)~文久年間(1861~1864年)頃、英国公使館が置かれ、境内には10ヶ所の番所が設けられたという。1861(文久元)年、水戸浪士14人が乱入し、英人2名を傷付けた事件が起こっている。
慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数108・人口348(府志料)。1869(明治2)年~1872(明治5)年、町内の町奉行支配に属した5町・5門前は、高輪北町、高輪南町、高輪台町、芝二本榎(町)二丁目となる。
残余の下高輪町は1878(明治11)年11月2日、東京府芝区に所属。同年一部が高輪北町に合併。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市芝区に所属。1908(明治41)年の世帯104・人口524。1943(昭和18)年7月1日、東京都芝区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都港区に所属。
1967(昭和42)年7月1日、住居表示の実施により、現行の高輪三丁目14~23番の一部となり消滅。
撮影場所:下高輪町
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