【下谷①027】下谷町

町番号:下谷①027

町名:下谷町 一・二丁目

読み方:したやまち Shitayamachi

区分:町丁

起立:1619(元和5)年

廃止:1964(昭和39)年9月30日

復活:1965(昭和40)年8月1日

廃止:存続 「下谷」として(但し、現在の「下谷」は別の所)

冠称:なし

現町名:台東区上野四、六丁目

概要:古くは豊島郡峡田領下谷村のうちと伝える。1613(慶長18)年、金子三郎兵衛と恩地惣兵衛という名主2人が幕府に町屋の開設を願い出て、6年後の1619(元和5)年に起立。町名はこの地が嘗て下谷村に属していたことに因み、また町の起立が他の町よりも早かったことによる。その後、下谷町一丁目そばに拝領屋敷が形成され、下谷町二丁目と称した。

この時の町域は広く、旧町名でいえば、下谷町一・二丁目、上野三橋町五條町上野山下町の南部にまで及んでいた。当時、下谷町は一~三丁目に分けられ、1644(正保元)年より東叡山寛永寺の本坊御用人足、境内掃除人足を負担。

1698(元禄11)年9月6日の勅額火事で町内が類焼し、一丁目西側と二・三丁目が召し上げられ、町域は一丁目東側のみとなった。そのため、筋違御門内、西久保、下谷長者町二丁目続、屏風坂下下谷車坂町続の4ヶ所に代地を与えられた。のち、筋違御門内の代地は神田小柳町一~三丁目、西久保の代地は西久保新下谷町と各々改称。他の2ヶ所は「下谷町代地」と称し、引き続き寛永寺の御用人足を勤めた。また、1698(元禄11)年に収公された旧地に再度下谷町二丁目を起立したが、その一部は1737(元文2)年に火除地となる(備考)。化政期(1804~1830年)の家数は下谷町一・二丁目、下谷長者町続下谷町一丁目代地、屏風坂下下谷一丁目代地の合計で196軒(町方書上)。一丁目は「竹町」と俗称(『大江戸今昔めぐり』では下谷町二丁目と上野元黒門町の間の道に「竹町」とある)。二丁目には料理屋が多く、また独楽回しの竹沢藤次等が居住。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年、一丁目は隣接する寺社地を併合。同時に2ヶ所の代地は下谷下車坂町下谷長者町二丁目に編入となる。同年の戸数172・人口696(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府下谷区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市下谷区に所属。1890(明治23)年、上野~秋葉原間に貨物線が開通。1925(大正14)年の上野~神田間高架線開通によって町域や町の環境が変化。1943(昭和18)年7月1日、東京都下谷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都台東区に所属。

1964(昭和39)年10月1日、住居表示の実施により、一丁目が上野四、六丁目に、二丁目が上野六丁目に編入となり消滅。

しかし、1965(昭和40)年8月1日、住居表示の実施により、入谷町坂本一・二丁目、豊住町、金杉一・二丁目、金杉上町の各一部をもって新たに「下谷」が起立。一~三丁目に分けられた。これは住居表示の実施のため、旧来の下谷にあたる町域が消滅してしまったこと、その他「下谷〇〇町」と下谷を冠称していた町も相次いで町名変更してしまったことを憂い、歴史ある「下谷」の地名を絶やさないための継承である。そのため、もとの「下谷町」とは全く関係ないが、現在の下谷を下谷町の後継とする。


なお、そもそもの「下谷」について以下に詳述する。

「下谷」とは、隅田川西岸に位置する。地名の由来は未詳であるが、上野台地の下に位置し、中世は千束郷に属したと思われる。現在の台東区、荒川区の各一部。戦国期にもその名は見え、豊島郡に属す。「下屋」とも書いた。『役帳』には小田原北条氏の臣で御馬廻衆の大谷十郎左衛門の所領として「三拾五貫九百文 江戸廻 下谷菅野分」とあり、江戸衆原田某の所領として「七貫三百拾文 江戸 下谷五分一」と見える。『隣松夜話』には1564(永禄7)年に太田三楽が「武州下屋」という所で砦を拵えたが、「砦の跡詳ならず、是も上野の内なとにや」と記している。これらの下谷、下屋は江戸期の下谷町の辺りか(備考、新編武蔵)。

撮影場所:下谷町二丁目

撮影地:台東区上野六丁目12番11号(JR高架下 カレー専門店クラウンエース上野店)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。