【本郷①015】湯島

町番号:本郷①015

町名:湯島 一~六丁目

読み方:ゆしま Yushima

区分:町丁

起立:一、四~六丁目は江戸期、二・三丁目は1886(明治19)年

廃止:存続

冠称:なし

現町名:文京区湯島一・二丁目、本郷三丁目

概要:昔、不忍池は海と繋がっていたらしい。江戸時代以前、海から見るこの地が恰も島のように見えたことから「湯島」の名が付いたとされる。一帯は「湯島郷」と呼ばれていたが、何故「湯」島なのか、諸説はあっても真偽は不明。「湯島」の町名は江戸初期から次第に町場化したが、時期によって町域や「丁目」の数に変動がある。はじめは一~六丁目が存在した。1683(天和3)年の火災により、一~五丁目まで召し上げられた。後に、拝領地となり、町屋が設けられ、一、三~六丁目を新しく起立。幕末期まで二丁目は欠番であった。湯島聖堂の東方に一丁目があり、以下、東から西へ順に三・四・五・六丁目があった。これらの町域は現行の湯島一丁目と本郷三丁目(南部)にあたる。

桜の馬場が設置されたのに伴い、四丁目は馬場守、的場守の拝領町屋敷となったので、「馬場屋敷」、「的場屋敷」ともいった(備考)。化政期(1804~1830年)の家数561軒(町方書上)。明暦の大火まで、2代将軍秀忠にお茶用の水を献じた高林寺があった。1691(元禄4)年、一丁目西側に忍岡から聖堂が移転。昌平黌を併設し、儒学の最高学府となり、同地内で『御府内備考』、『新編武蔵風土記稿』の編纂が行われた。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。明治初年に江戸期以降の湯島の町屋に聖堂の構地、昌平坂学問所跡、鉄砲鋳場跡、定火消屋敷等を合併。1870(明治3)年、湯島三丁目が同四丁目に編入。これにより「湯島」は二丁目と三丁目が欠番となった。1872(明治5)年の戸数446・人口1,694(府志料)。旧昌平坂学問所跡には東京高等師範学校が開かれ、さらに1874(明治7)年に隣接して女子師範学校が設立。また東京教育博物館も聖堂内に置かれた。

1878(明治11)年11月2日、東京府本郷区に所属。1886(明治19)年、本郷区と神田区の境界が変更され、神田区神田宮本町の一部が本郷区に編入。当該編入区域が新しい湯島二丁目及び三丁目となった。このとき成立した湯島二丁目は湯島聖堂の所在地で、東京教育博物館(国立科学博物館の前身)があった。三丁目は昌平坂学問所の跡地で、東京師範学校(東京教育大学、筑波大学の前身)及び東京女子師範学校(お茶の水女子大学の前身)があった。現在の東京医科歯科大学及び同大学附属病院の敷地にあたる。

1889(明治22)年5月1日、東京府東京市本郷区に所属。1934(昭和9)年、湯島五丁目の全部と湯島六丁目の一部を湯島二丁目に編入。これにより湯島一~六丁目のうちの五丁目は欠番となった。この時、五丁目から二丁目に変更された区域は現行の本郷三丁目南部にあたり、順天堂大学及び順天堂医院の所在地である(明治30年代に順天堂病院が定火消屋敷跡に開かれ、1944(昭和19)年に敷地内に順天堂医学専門学校を併設)。1929(昭和4)年には東京歯科医学校が設けられた。1934(昭和9)年、五丁目及び六丁目南一部は二丁目に編入。五丁目は欠番となる。1943(昭和18)年7月1日、東京都本郷区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都文京区に所属。

1965(昭和40)年1月1日、住居表示の実施に伴い、従前の湯島一、三・四丁目に、妻恋町湯島三組町湯島新花町湯島天神町一~三丁目、湯島同朋町(もと湯島天神下同朋町)、湯島切通坂町湯島梅園町湯島切通町(以上全)、湯島二丁目、本郷龍岡町湯島両門町を加えた広範な区域を新たな湯島一~四丁目とした。ただし、旧二丁目の一部は本郷三丁目に編入となった。

内訳は、湯島一丁目の全部、湯島二丁目の一部、湯島三丁目の全部、湯島四丁目の一部、妻恋町の一部が一丁目に、湯島四丁目の一部、湯島新花町の全部、湯島三組町の一部、湯島天神町一丁目の一部、湯島梅園町の一部、湯島切通坂町の一部、妻恋町の一部が二丁目に、湯島三組町の一部、湯島天神町一丁目の一部、湯島天神町二・三丁目の全部、湯島梅園町の一部、湯島同朋町の全部、湯島切通坂町の一部、妻恋町の一部が三丁目に、本郷龍岡町の全部、湯島切通坂町の一部、湯島切通町の全部、湯島両門町の一部が四丁目になった。

※『角川日本地名大辞典』には「同(昭和40)年現行の湯島1~3丁目・本郷3丁目となる」とあるが四丁目もである。


なお、そもそもの「湯島」について以下に詳述する。

「湯島」とは、『和妙抄』記載の湯島郷に由来するか。文京区の東南端、本郷台上に位置する。江戸期、元禄年間(1688~1704年)に忍岡(上野台)から当地に移転した孔子廟は湯島聖堂として著名。中世では室町期(1336~1573年)から見える地名。1487(長享元)年正月、加賀白山修験僧恚恵は忍岡を見学、次いで当地に至り、「湯島という所あり、高松遙かにめぐりて、しめのうちに、むさしのの遠望かけたるに寒村の道すがら野梅盛に薫ず」と記している(北国紀行)。戦国期の小田原北条氏治下では江戸衆龍崎文四郎が湯島に53貫112文を知行しており、そのうち30貫文を馬廻衆の中村平四郎に売却していた(役帳)。

撮影場所:湯島二丁目

撮影地:文京区湯島一丁目4番25号(湯島聖堂)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。