武蔵国と下総国の国境は(今の)隅田川ではないことを確かめるツアー

今こそ糺そうぜ、違うものは違うんだよ


「知ってる?武蔵国と下総国の国境って隅田川なんだって」

「へえ~そうなの?」

「その2つの国を結ぶ橋だから両国橋っていうんだって」

「へえ、そうなんだぁ。ってことは墨田区と江東区って下総国なの?」

「江戸時代初期の1683年、和暦でいうと貞享3年、又は寛永年間(1622~1643年)に太日川(現江戸川)以西を武蔵国に編入したって話なのよ」

「へ~え、そうなんだぁ、物識りぃ~」


↑ この会話がとにかく諸悪の根源。いや、「太日川以西」っていう中途半端な言い方、これがとにかく間違いのもと!


じゃあ「どこが武蔵と下総の国境なのか」、そいつを一緒に辿ろうじゃないか。


※フェイスブックに載せているものを転載。文章は一部修正。

 元ネタは2016(平成28)年10月15日(土)アップ 


ここに解りやすく書いてあります!是非こちらもお読みください!


ここは隅田川の左岸。首都高速6号向島線の入口付近だ。ここから首都高速に乗る場合は、墨堤通りから入るわけだけど、右折だか左折だかして、低速度で本線合流までつーーーっと左カーブを描くところ、まさにその下辺りの護岸際、俺はそこにいる。隅田川に向かって立っている。対岸の真ん中の建物は浅草病院。

↑ 判りづらいだろうから地図を載っけてみた。矢印は目線ね。


今、立っている場所、住所でいうと墨田区向島五丁目。油断してよろめくと堤通一丁目に入っちまう。

そう、隅田川に向かって立つ今、右手は墨田区堤通一丁目で、サングランデ桜橋っていうマンションが建っている。左手は墨田区向島五丁目で、アサヒビールの墨田配送センターがある。

何を隠そう、ここが武蔵国と下総国の国境なのだ。隅田川はここで別の流れとして今まさに俺がいる方向へも流れていたのだ。それを「古隅田川」といった。その後は正式名称として「古川」又は他の古川との混同を避けるためか、「請地古川」と呼ばれた。

古隅田川は葛飾区新宿二丁目辺りで中川から分派し、ぐにゃぐにゃと蛇行しながら、JR常磐線の亀有駅から綾瀬駅、東武伊勢崎線(スカイツリーライン)小菅駅方向へと東から西へ流れ、その後は牛田駅、堀切駅まで南下し、ほぼ墨堤通りをなぞりながら現在の都立東白鬚公園の辺りで今の隅田川に合流していた。

その後、隅田川はまさに今俺のいる場所まで来て、2派に分かれるのだ(正しくは今の隅田川と隅田堤で3派に別れる4派)。つまり今「隅田川」と呼ばれる流れと、俺がこれからあなたと一緒に見て行く“流れ”と。


で、これが180°ターンして撮ったもの。目の前の2階建ては首都高速の詰所で、左側に建つ薄桃色のマンションが「サングランデ桜橋」というマンションだ。

さて、ここからの写真は全て、旧国境の武蔵国側から撮影するため、道の真ん中よりやや右寄りの位置から撮る。

古隅田川の最南端である部分の“請地古川”の右岸、つまり俺の右手側は、古代から武蔵国豊島郡であり、江戸時代の利根川東遷事業の国境変更後は武蔵国葛飾郡であり、江戸に組み込まれ、東京15区発足後暫くは東京府南葛飾郡のうちであったが、1891(明治24)年3月からは本所区だったのだ。一度たりとも下総国になったことなどない。

そして逆に左岸、俺の左手側は、古代では下総国葛飾郡、そして利根川東遷事業後の国境変更後は武蔵国葛飾郡、江戸に組み込まれてからも南葛飾郡寺島村、隅田村、吾嬬村等々であり、東京15区発足後は各村が町制施行したことはあったが、依然として大きな括りの南葛飾郡の内であり変化はなかった。

再度言う、利根川東遷事業完了までは右側の向島五丁目は武蔵、左の堤通一丁目は下総だったわけだ。東京スカイツリーはここよりもっと南にある。「途中まで下総国だったのにムサシに合わせて634mだってさ、ちゃんちゃらおかしいぜ」と言ってる半チクは一生そのままでいい。「ちゃんちゃらおかしい」の言葉はそのままお返しするってばよ。

誤解しないでほしいんだけど、「下総国が嫌だ」となんて全然思ってない。ただ、嘘が罷り通っているのがどうしても許せないんだよ。

♪ お暇なら来てよね


ってことで、首都高速6号向島線の入口に来た。目の前の道は「墨堤通り」という。墨田区はもともと島と低湿地帯であるため坂はない。いや、架かる橋の全てが太鼓橋だからその橋詰だけには傾斜がある。

いや、それ以外に坂があるとすればこの墨堤通りの東側全てがこのような形になっている。「墨東地区=低地」という生半可な知識の持ち主だと、「これは地下水汲み上げによる地盤沈下なんじゃねえのか」と言いそうだけど、そういう奴は放っておく。

「墨堤通り」という名前そのままここが宮古川(現在の隅田川)の堤だったわけだよ。当然、土手は人工的に盛られたものだから、そこからの眺めは全て下に決まっている。だから坂のない墨田区でも唯一この墨堤通りの東側はこういう状態になっている。ちなみにここよりやや北側には「地蔵坂」と呼ばれる坂もある(土手上に子育て地蔵堂があるため)。


※墨田区の傾斜は他にも荒川の方とか旧中川沿いの方とかの川沿い土手もあるけどね。


さて、ここは「牛島堤の締切」という。何を締め切ったかといえば、川の水だ。当時の宮古川である今の隅田川を本流とすることが決定され、今からあなたと一緒に辿っていく「古隅田川の南端部(請地古川)は廃川にしてしまおう」ということになった。


“牛島堤の締切:隅田川の西遷により宮戸川が隅田川の本流になり、その東岸が埋め立てられたあと、武蔵国と下総国の国境が旧い利根川・隅田川から当時の利根川・今の江戸川に変更になったとき、今の西遷後の隅田川の東岸全部が元の下総国葛飾郡であったと誤解された。”(「天体・天文・暦・地図・気象アラカルト」から引用)


そう、ここを踏まえずに「隅田川より東は下総だった」などと喧伝する人がいたせいで、それが定説となってしまったわけだ。本当に馬鹿馬鹿しい話だ。

さて、墨堤通りを渡って、この道を突き進むとしよう。

ワクワクする?うーん、意外とつまんないよ。


さて、墨堤通りを渡った。首都高速向島入口を1回振り返ってみよう。


はい、振り返り終わり。進行方向に向き直してくださいな。ここから先暫くは、「鳩の街通り商店街」を辿ることになる。そう、あの赤線地帯だ。吉行淳之介の『原色の街』の舞台となったところ。その鳩の街はもともと古隅田川(請地古川)の河原(?)だったわけだよ。胸アツでしょう?

写真、向じま達鮨は向島五丁目、左のコカ・コーラの自動販売機や雨宮商店は東向島一丁目。


先に進む前にここでややっこしい話を1つ解決させとこう。

本所区は1878(明治11)年11月2日に成立した。その後、1889(明治22)年5月1日には東京市本所区となった。その範囲、南端はほぼ竪川(本所千歳町本所林町本所徳右衛門町本所菊川町本所松井町を除く)、東端はほぼ横十間川(それまで本所地区だった本所亀戸町本所五ノ橋町本所瓦町本所松代町四丁目は南葛飾郡亀戸村に編入させられてしまった)、西端は宮古川(現在の隅田川)とした。深川北松代町が本所区に移籍して1880(明治13)年から本所松代町になったりという細かい境界変更はあったものの、ほぼ本所区の形は決まった。

で、北端は?北端は北十間川ではなく、ここ請地古川だった。

現代の地図で見れば、「北十間川にしとけばよかったんじゃねえのか」なんて思うが、本所区の北端を請地古川としたのだ。それは何故か。

当然の話かもしれない。1889(明治22)年5月1日の東京市市制施行では、江戸だ江戸じゃない関係なく、嘗ての武蔵国と下総国との国境をちゃんと踏まえたからだ。

なお、柳島や中之郷を除く本所区の町名には原則「本所」の冠称が付されていたのだが、北十間川より北で請地古川より南のこの範囲にあった町々は、1891(明治24)年3月の起立以降、向島須崎町向島中之郷町向島小梅町向島請地町向島押上町と全て「向島」の冠称が付されていた。そしてその5町は、墨田区向島等となった現在でも「本所」の一部として存在している。そう、「向島なのに本所」という…。

ややっこしいだろう?

そして1932(昭和7)年10月1日に成立した向島区。このネーミングがさらにややっこしいのに拍車をかけた。向島区は嘗ての寺島、吾嬬、隅田という各村(各町)が合併してできた区だ。だから「寺島区」とかにすればよかったんだろうけど、どっか1つのところが代表とされると他が面白くないってことで、浅草や日本橋から見た俗称「向島」を区名として採用したってわけだな。つまり「川向う」という意味だ。それは広域地名だから、新区が「向島区」を名乗っても悪かぁない。ただ、やっぱりややっこしいけどね。

で、その旧寺島町の南端がその後「東向島」を名乗ったからさらにややっこしいんだ。

整理しよう。


・本所の変遷(写真右側)

①武蔵国豊島郡

⇒②武蔵国葛飾郡

⇒③江戸内本所地域

⇒④東京府本所区

⇒⑤変化なし

⇒⑥東京府東京市本所区

⇒⑦東京都本所区


・向島の変遷(写真左側)

①下総国葛飾郡

⇒②武蔵国葛飾郡

⇒③武蔵国葛飾郡だが江戸内の向島地域(ただし町屋なし)

⇒④東京府葛飾郡の向島地域

⇒⑤東京府南葛飾郡の向島地域

⇒⑥東京府東京市向島区

⇒⑦東京都向島区


で、今から辿る古隅田川(請地古川)の写真、北十間川合流地点まで、右側は嘗ての本所区の「向島」の冠称が付く町(向島須崎町向島請地町向島押上町)、左側は後に向島区になる南葛飾郡の各村(各町)で、寺島村、善左衛門村(後に隅田村)、請地村(後に吾嬬村)ということになる。

それは東武・京成の線路の北側までね。そこから先は流路=旧国境跡を進んだんでそんなにややっこしくはない。

この左右が1947(昭和22)年3月15日に合併して墨田区となるわけだ。胸アツでしょう?


ちょっと進んだところ。電信柱の角を直ぐ曲がると古隅田川(請地古川)の流れだったところ。つまり埋め立てられた川筋。

これは国境をなぞるためのツアーだから、向じま達鮨の奥の角を曲がって、鳩の街通り商店街を行く。つまり、向じま達鮨を含む建物群は古隅田川(請地古川)左岸の河原、埋め立てられて道となったその西にあるライジングプレイス向島というマンションを含む建物群は右岸の河原ってことになる。つまり河川敷の左岸側=東側は下総ってことになる。ちなみにその道をちょっと見てみようか。

この小道が嘗ての古隅田川(請地古川)。左側の向じま達鮨は川の左岸河川敷跡、右側のライジングプレイス向島は川の右岸河川敷跡。左岸の河川敷跡に建っている向じま達鮨等の建物群とその東側の鳩の街通り商店街西側が武蔵国ってことになるんだね。


あとはこの「鳩の街通り商店街」を水戸街道(国道6号)にぶつかるまで行くだけ。下の地図の、右の濃い青色が水戸街道までの道程、左の水色が古隅田川(請地古川)の流路。よろめくと道の真ん中より左に行っちまう。そうなると旧下総国に入っちまうから要注意だ!


以下Wikipediaから引用

鳩の街(はとのまち)は現在の東京都墨田区向島と東向島の境界付近にあった赤線地帯。地理的に「玉の井」と近く、1kmほどの距離である。太平洋戦争末期に、東京大空襲で玉の井を焼け出された業者が何軒か、この地で開業したのが始まりという。終戦直後は、米軍兵士の慰安施設として出発したが、兵士が性病に感染することが多いため、1946年(昭和21年)に米兵の立ち入りが禁止された。その後、日本人相手の特殊飲食店街(赤線)として発展した。

この街の店舗は、警察の指導でカフェー風に作られた。1952年(昭和27年)当時は、娼家が108軒、接客する女性が298人いたという。

また、吉行淳之介の小説「原色の街」の舞台となった。さらに、永井荷風がこの地を舞台に戯曲「渡り鳥いつかへる」「春情鳩の街」を書いている。これらの荷風の2作品は、久保田万太郎の手により構成され「『春情鳩の街』より渡り鳥いつ帰る」として映画化され、森繁久弥、田中絹代、高峰秀子、岡田茉莉子らが出演した。


さらにWikipediaから引用

玉の井と同様に、この街も訪れる作家や芸能人が多く、吉行や荷風の他、安岡章太郎、三浦朱門、近藤啓太郎、小沢昭一などが、出入りしたことが知られている。

また、女優・歌手の木の実ナナがこの地で生まれ育ったことで有名である。

1958年(昭和33年)4月1日に売春防止法が完全施行され、すべての業者が廃業。最終日の3月31日には「蛍の光」を流して別れを惜しんだ。跡地は商店街やアパートなどの住宅となった。

現在でも、商店街の裏に入ると色タイルを貼った娼家風の建物が多少残っているが、老朽化による建て替えや改築により、それらも少なくなった。

また、今も、商店街や道路の名称として「鳩の街」の名は残っている。商店街は、下町らしい活気のある街であったが、現在はシャッターを下ろした店が多い。


再度Wikipediaからの引用。

『原色の街』(げんしょくのまち)は、吉行淳之介による日本の短編小説である。『世代』1951年(昭和26年)12月号初出。芥川賞候補作になった。その後、別の短編小説(『ある脱出』)のモチーフを入れて改稿した同名の作品が単行本(1956年)に収録された。現在、新潮文庫収録のものは、改稿後のものである。

あらすじ

主な登場人物は、赤線の娼婦あけみ(25)と、汽船会社に勤める元木英夫(30)である。

元木は同僚の望月と娼家「ヴィナス」を訪れる。あけみは、空襲で家族を失い、社交喫茶のホステスを経て娼婦になったという身の上話をする。元木はあけみの体を愛撫するが、酔っていると言って途中で寝てしまう。そのことがきっかけになって、あけみの身体に異変が生じる。あけみは元木を憎む一方で、もう一度会ってみたいと考える。

元木は見合いをした瑠璃子と交際を始める。瑠璃子が戦死した初恋の男のことを繰り返し語るのに、元木はかえって刺激を覚える。やがて瑠璃子は男の話をしなくなった。

望月はなじみの女、「ヴィナス」の春子をモデルに写真を撮ることになる。業界誌の表紙に使うというのは嘘で、望月はカメラにフィルムを入れず、いい加減にごまかすつもりである。それを知った元木はその情景の残酷さに耐えられない思いをする。元木はその場に同席し、ポーズを取る春子をすばやく写真に納める。

元木は再びあけみのもとを訪れ、春子に渡してほしいと言って写真を渡す。事情を知っていたあけみは元木のやさしさに涙を浮かべる。元木に抱かれたあけみは全身に確かな感覚を覚える。

元木の汽船会社では新しい貨物船が竣工し、レセプションを開催することになった。望月のおしゃべりを聞いて、「ヴィナス」の主人や娼婦たちも会場(竣工した船の甲板)にやってくる。瑠璃子も来ており、元木に大きく手を振るが、その様子を見ていたあけみは、嫉妬のため心のバランスを失って、体を元木にぶつける。2人は船の手すりを越え、水面に落下する…。


吉行淳之介の『原色の街』とか永井荷風の『濹東綺譚』とかを読んだことのある人で、実際には隅田川を渡ろうとしない人にとって、「墨田区とか江東区とかって、晴れてても空がどんより曇っているような気がする」地域なのかもしれない。実際、知り合いがそう言っていた。

何となく解るような気がする。何も赤線・青線はこの地域だけのものじゃないけどね。

劣悪な環境の工場が犇めき合って、川に汚水が垂れ流されていた地域。その後の高度経済成長期には「金の卵」だと持て囃され、東北や新潟あたりから集団就職でやって来た人たちがたくさんいた。高等教育を受けるはずの年齢が低賃金でこき使われ、まだガキなのに大人の仲間入りを余儀なくされた人たち。そんな人たちが大人になり、ベテランとなって故郷に帰らず、夕方以降は近所の安酒場でお国言葉で管を巻いている。そんな実状も加えたら、たしかに「どんよりしてる」ってイメージはあるだろうな。

でも実際来てみるとどうよ。どんよりしてるはずがない。空は抜けるように青く、人情が厚く、大いに笑い、元気で賑やかだ。

とにかく来てみないと分かんないことだよ。


気取りがないっていうのは本当に楽なことだ。

ハイソでソフィストケイティドゥだって?一昨日来やがれってんだよ!勝ち組だの負け組だの…。それに比べるとここいら辺って本当にいいよ。


はい、鳩の街通り商店街もここまで。向こう、左右に横切るのは水戸街道(国道6号)。


ここで止めちゃう人が多いようですが、

↓↓↓ 下のリンクから水戸街道以南もご覧ください。国境の旅はまだまだ続きます。


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。