【日本橋①004】本町

町番号:日本橋①004

町名:本町 一~四丁目

読み方:ほんちょう Honchō

区分:町丁

起立:1590(天正18)年9月

廃止:存続

冠称:1947(昭和22)年3月15日から「日本橋」

現町名:中央区日本橋本町二・三丁目、日本橋室町二・三丁目、日本橋本石町二・三丁目

概要:江戸時代には「江戸本町」の名称で、江戸を代表する町として名高い場所であった。徳川家康の江戸入府以前には「福田村」とも「洲崎」とも呼ばれていたという。

徳川氏が入国直後の1590(天正18)年9月、最初に地割を行った町地。寛永の頃(1624~1645年)には既に京・大坂より大店が進出し、商業地域として大いに発展を遂げた。江戸城大手門の真東に位置するとともに、諸街道の起点である日本橋に隣接することによる。即ち、「本町」という町名は、「江戸の中で初めに造られたおおもとの町」という意味である(実際には道三堀沿いの舟町柳町材木町四日市町が先とされるが真偽は不明)。

江戸期の本町は常盤橋から浅草橋に至る通りを挟んで位置し、現在の日本銀行から東へ昭和通りまでの区域に、江戸城側から一丁目から四丁目までがあった。

江戸期には金座(現在の日本銀行本館)、枡座があり、また3人の町年寄、奈良屋(館)市右衛門、樽屋藤右衛門、喜多村彦右衛門の役宅があった。江戸時代から明治初年まで、江戸城内から、常盤橋、日本橋本町を通り、浅草橋から浅草に至る本町筋(本町通り)は伊豆蔵屋をはじめとする呉服商や薬種問屋等の古くからの豪商の集まる街区で、土蔵造りの各種問屋が店舗を連ねており(町づくし稿)、「江戸=東京」の目抜き通りであった(後にその座は直交する京橋~万世橋間の日本橋大通りに移っていく)。

江戸の瓦葺き屋根も当町から始まった。滝山弥次兵衛が1601(慶長6)年の大火後、店の表を瓦葺きに、裏を板葺きとしたので「半瓦の弥次兵衛」と呼ばれた(慶長見分集・画報)。戯作者の式亭三馬は当時の本町二丁目に住んでおり、その住居を「本町庵」と号し、戯作を書く傍ら商売を営んでいた。三代目瀬川如皐も本町四丁目の出身である。

慶応4年5月12日(1868年7月1日)、江戸府に所属。慶応4年7月17日(1868年9月3日)、東京府に所属。1872(明治5)年の戸数281・人口1,501(府志料)。

1878(明治11)年11月2日、東京府日本橋区に所属。1889(明治22)年5月1日、東京府東京市日本橋区に所属。明治期には東京割引銀行、第九十五銀行等金融機関が集中(画報)。

1932(昭和7)年、帝都復興計画の一環により、本町は近隣の本石町と同様に町域を変更することになり、本石町三・四丁目、岩附町瀬戸物町伊勢町本船町長浜町安針町本小田原町鉄砲町大伝馬町一丁目、大伝馬塩町堀留町一丁目、本銀町四丁目を合併し、現在の江戸橋側からの一~四丁目となった。1943(昭和18)年7月1日、東京都日本橋区に所属。1947(昭和22)年3月15日、東京都中央区に所属。

※『角川日本地名大辞典』には「明治2年本町3丁目裏河岸を編入」とあるが、1869(明治2)年に本町三丁目裏河岸が編入されるのは本町三丁目ではなく、室町三丁目と伊勢町である。

撮影場所:本町三丁目

撮影地:中央区日本橋本町三丁目1番6号(日本橋永谷ビル お江戸日本橋亭)

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江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。