片葉の葦

ってことで、今度は両国橋東詰へ移動。

歌川国輝の絵、復活。

―以下全てお話部分はWikipediaを引用―

江戸時代の頃、本所にお駒という美しい娘が住んでいたが、近所に住む留蔵という男が恋心を抱き幾度も迫ったものの、お駒は一向になびかず、遂に爆発した留蔵は、所用で外出したお駒を追った。

そして隅田川からの入り堀にかかる駒止橋(駒留橋)付近(現在の両国橋付近の脇堀にかかっていた橋)でお駒を襲い、片手片足を切り落とし殺した挙げ句に堀に投げ込んでしまった。それ以降、駒止橋(駒留橋)付近の堀の周囲に生い茂る葦は、何故か片方だけの葉しか付けなくなったという。


ってことで、京葉道路(国道14号)に出た。目の前の坂っぽくなっているのが両国橋。現在の両国橋は以前よりやや北に架けられている。上を通るのは首都高速6号(向島線)。

すぐ手前に見えんのが…。


自転車に跨る2人組の会話が聞こえた。

「ずっと前からここ何だろうと思ってたんだけど、もんじゃ焼き屋か」

だってさ。違うよ、何言ってやがんだよ。


「もゝんじや」だよ!ここは平仮名表記だからあれだけど、漢字を当てると「百獣屋」。

昔は仏教の教えで肉食が避けられてたのはご存知だろう。だけどどうしたって喰いたい。だって美味いの知っちゃってるわけだから。そしたらどうすんの?そう言い替えだよ。猪の肉は「山鯨」、鹿の肉は「紅葉」って言い替えてぇ、滋養強壮のためにそれらを喰うことを「薬喰い」って言い替えてぇ…。

結局は喰ってやがったんだよ。誤魔化し方は政治家の馬鹿どもと一緒だね。

殊に両国東広小路のここ「もゝんじや」は有名だったそうだよ。「もんじゃ焼き屋」じゃねえよ、箆棒め。店舗、江戸時代には一の橋通りを挟んだ、大徳院の西側にあったようだよ。


これが店前に飾られてる猪、いや、山鯨の剥製。最初見たときかなりショックだったけどな、今はもう慣れてきたかな。


ってことで視線をまた西に戻そう。この公園から南辺りが旧両国橋が架かっていた位置になる。今のよりやや南。ここは墨田区立両国橋児童遊園っていうんだけど、子供が遊んでんの見たことないや。


「日の恩や忽(たちま)ちくだく厚氷」

赤穂浪士・大高源吾忠雄の句碑だ。…何となく子供がここで遊ばなさそうなのが解るでしょう?


日露戦争の戦没者を弔うために建っている。かなり立派な碑だ。この威圧感に子供たちはここで遊びたがらないんだろう。


碑だけじゃなくてちゃんとこういうのもある。至近の名所「百本杭」のことも書いてある。


公園の外に3枚の看板がある。


本所藤代町の由来。


で、ここが駒留橋跡ってことになる。両国橋の横っちょにあった堀に架けられてた橋。繁華だった本所藤代町だけど、何故かここだけはほとんど人が寄りつかなかったらしい。

それは「駒留橋」って名前がお駒とそれを殺した留蔵の名前から来てるんだし、その陰惨な殺人事件が原因で片方にしか生えなくなった葦が生い茂るってことで「片葉堀」でしょう。おまけに留蔵はお駒をその堀に投げ捨てたってんだから、そりゃ誰も寄りつかないさ。

ははは、よくできた話だ。

賑やかな本所藤代町やその奥の本所尾上町へ来るのに乗ってきた馬を留めておくには、ここがもってこいの場所だったわけだよ、駒留橋の周り。だから「駒留」なんだよ。そう、今でいう駐車場。だったら当然そこだけひとけがないってことになるよね。お駒と留蔵なんて作り話に決まってんじゃねえか。

これはね、「片葉堀に落っこちないように」、「用のある奴以外は片葉堀に近寄らない方がいいぜ」っていうために作られた怪談なんだと思うよ。


↑ 詳細はこれを読んでねー。

しかし留蔵の罪名って殺人、死体遺棄だよね。その前には度重なるストーカー…。ひゃあ、これが一番おっかないか。


あの当時の1日2万人以上の往来って凄いよな。

1897(明治30)年8月10日、花火大会の最中に橋上の見物客の重みに耐えかねて崩落し、1904(明治37)年に架け替えられるまで木橋だったというのが逆に驚きだ。


「片葉の葦」とは関係なくなっちゃうけど、ここには木の看板がたくさんあるから一応撮っとこう。

ここから本所松坂町の吉良邸まではほんの少し。みんな大好き『忠臣蔵』だろうけど、堀部安兵衛なんて本所林町(別宅は向こう河岸の米沢町)、杉野十平次宅は本所徳右衛門町、前原伊助は本所相生町

想像つく?赤穂浪士が本集合前にそれぞれ息を潜めて集まっていた場所から吉良邸までの距離。地図で見てああだこうだは言えると思うけど、実際来て、歩ってみるといいよ。余りに近い。

いやあ、夜中の4時に1人の爺さんを殺すために大人数が爺さん家の至近距離でそれぞれ準備するってねえ、いくら仇討ちだっつったって卑怯にもほどがある、と俺は思うんだよ。


『黄金餅ツアー』は下谷山崎町から麻布絶江釜無村まで、『おいわさんといっしょツアー』では神田川面影橋から隠亡堀まで、それを辿るだけでヒィヒィ言ってたわけだけど、昔の人っていうのは本当に健脚だったんだなぁ。

大山詣でなんてさ、江戸から大山までなんて絶対歩きたくねえよ。三軒茶屋まで出るのにまず途中でダレるだろうし、用賀で休み、多摩川渡って溝口で吞んじゃうだろう。荏田までは下り坂だからいいとして、長津田や下鶴間なんてとこは行かずに引き返すかもな。「ここでも充分大山見えるし!」って。おっと、いくら難でもそのルートは辿らないぜ。


本所藤代町の隣町・本所尾上町。隣町っつったってほんの数十メートル行けば別の町。両町ともその後は東にあった南本所元町(後に本所元町)に吸収され、今は墨田区両国一丁目。

ずいぶんのっぺりした町名になっちゃったもんだな。


あと1ヶ所だと思うとずいぶん気が楽になってきた。これから最後の「送り拍子木」の舞台、本所花町まで向かう。

御府内にはこうやってたくさんの神社がある。屋敷神なのかどうかは不明。たいてい立派なお宅の一部分に鎮座してることが多いけど、ここについては汚えアパートの前に無理矢理あるって感じ。それも神社の方が綺麗なんだぜ。


両国から錦糸町に移動するにはこの馬車通りを行くと速いんだよ。京葉道路は歩道狭いし、この1本南の竪川に近い道は橋詰のたんびに起伏がある。だからこの道がいいんだ。

馬車通りとは市電が開通するまでここの道に馬車が走っていたことから名付けられた。馬車は菊川から出発し、竪川二之橋を渡り、ここを通って隅田川両国橋、そして九段まで。

今調べたら、「総房馬車会社」という会社もあって、その本社が両国にあって、両国~千葉を結んでいたらしいよ。総房馬車もこの通りを使っていたのかは分からないけど、1894(明治27)年に総武鉄道(JR総武線)が開通したことで淘汰されちゃったんだろうな。


江戸町巡り

落語や時代劇、近代文学の愛好家諸氏、 江戸の町を散歩してみませんか? 表紙:小梅五之橋町 ※コピペしてもかまいませんが、その際は逐一出典を明らかにしてください。